高校入学
高校は、小学校も中学校も同じでない、つまり誰も知っている人がいないところへ進学した。
勉強が足りず、公立高校には落ちてしまったが、それでも私立の進学校に入学することができた。
やはりそれなりの公立高校へ進学することが、私の住んでいる地域では良しとされていたので、親には怒られたが、自分よりも少しレベルの高い学校に合格できたのは純粋に嬉しかったし、
なにより、誰も知っている人がいない場所で再び学校生活を始められることは、私にとっていじめられっ子から脱却し、再び毎日学校に通えるようになるためのチャンスでもあったと今でも思う。
世界で一番辛い人
学校へあまり行かなくなった頃から、これは高校までにかかってくる話でもあるのだが、
「もっと辛い人はたくさんいるんだから」
とよく言われた。
「私の知り合いの学校の子は机の上にわざと花を置かれたりもしていたらしい。それに比べたらまだいい方だ」
「世の中には行きたくても学校に行けない人がいる。それに比べたらあなたはまだいい方だ」
親を引き合いに出して話をする人もいた。
「あなたが学校に来ないことで、授業に出ないことで、悲しむのは親御さんでしょう。親御さんの為にも云々」
「もしあなたがひどい病にかかって、臓器移植手術を受けるとしたら、真っ先に私のを使ってくださいというのはあなたの親だ。その親の為にも云々」
とかいうのを、やけにしんみりとさせながらいっていた。
他にも
「生きたくても生きていられない人だっているのに」だとかそんなのもよく聞いた。
結びの言葉には大体、「だから少しだけ教室に行ってみよう」だとかの言葉がついた。
私はこれを悉く断っていたのだが、その度にそういうことを言ってきた人たちはとても不満そうな顔を見せた。
彼らの言わんとしていることは分かっていたし、彼らにとっては、それは励ましの言葉のつもりだったのだろう。
残念ながらそれらが私の中で励ましとなったのは一度もないのだが。
それらは逆に、もっと辛い思いをしている人がいるのに、私がこのいじめのことで、自分の中に渦巻いているどす黒いもやもやしたもので、辛そうに苦しんでいるのは甚だしいと言われているように私に感じさせた。
もっとひどいことをされている人がいるのだから、私が受けてきた「死ね」や、悪口や、バイ菌扱いや仲間はずれは些事で、私がそれに対して苦しみを感じるのはおかしいと、
学校に行きたくても行けない人だっているのに、学校に行かないのは贅沢であると、
生きたくても生きていられない人だっているのに、死にたいというのはおかしいと、
それらの人の方が辛いのに私が辛がり苦しむのはおかしいと、
批判されているようにも感じた。
加えて、その言葉の中にいるのは私ではなかった。
その言葉で彼らが慮っていたのは私よりも辛い誰かであり、私が学校へ行かないことを悲しむ親であり、学校に行きたくても行けない人であり、生きたくても生きられない人であった。
彼らの方が辛いんだからあなたは平気でしょ?と、つまり、そういう言葉であった。
私は確かに辛かったと思う、苦しかったと思う。
だが、彼らはそれを認めさせてはくれなかった。
そんなに言うのなら私の代わりに学校に行きたい人が行けばいいし、私の代わりに誰か生きていたい人が生きてればいいのではないかと思った。
世界一辛い人などどこにいるのだろうか。
中学生生活
中学生の時はいじめられていたことよりも、
自分の中の不安や焦りや恐怖など様々な感情がないまぜになって精神的に不安定だったことが私の中を占めすぎていたためか、もう死ねという言葉も、悪口も陰口もからかいも日常のことと慣れてしまっていたからか、
あまりこの頃の日常的ないじめの内容というのは覚えていない。
中学校の時にされた事として覚えているのは、
下校時に私の後ろにいた男子生徒たちがどれだけ大きな声で「死ね」と言えるかとゲーム感覚で言ってきたこと。
同じ小学校出身の女生徒からたびたび悪口を言われていたこと。
それもあり私の周りから彼女と知り合いの子は離れていったこと。
もう一つの小学校からあがってきた、やんちゃそうな女生徒が、やたら絡んできて私の反応を見ては面白がっていたこと。
教室の端にいる私にむけて、これまた端の方から大声で、私が反応するまでわざと間違いの名前を呼び続けていたこと。
これくらいだ。
先生方は尽力を尽くしてくれたのだろうが、いじめは完全には無くならなかった。
学校に行けない日々が続く状況も、解消はされなかった。
学校に行こうが行かまいが、心の中の恐怖感や焦りは、消えなかった。
卒業式は、小学校の時と同じく、涙など出てこなかった。この時も、涙を流す周りの気持ちがわからなかった。
私の中学生としての生活は幕を閉じた。
中学校の先生
中学校でのいじめが始まって当初は、先生に助けてもらおうなんて期待はしていなかった。
小学校の時のことがあったし、先生はみんなおなじだろうと思っていた。
しかし親が学校へいじめの事を相談してからは、色々な先生がいることを知った
学校にいようがいなかろうがあまり関わりたくなさそうな人、
別教室に登校している時にわざわざやって来て、こんなにやってやってるのになぜ出来ないんだと言いに来る人。
普段関わりはなかったが、勉強の質問で訪れた際に、今後の授業でやってみるつもりだという理科の実験を見せてくれた人。
中でも、私が強く印象に残っている先生は、数学担当であり、私が在籍している学年の主任の先生だった。
親の相談を受け、学校で親と、私と、先生と話している時だったと思うが、彼は
「もうあなたをいじめさせない。」
と言った。他にも、だからなにか酷いことを言われたら相談してほしい。その子達にはちゃんと自分が対応する。など、言っていたと思うが、その一言が今でもとても強く印象に残っている。
彼の言葉に安心した訳では無い、実際少なからずの嫌がらせや悪口は卒業まで続いていたし、先生が出てくることで余計になにかされるんじゃないかという不安もあった。(実際先生に注意されたあとのやんちゃな人たちは私に強くあたった)
しかし、その言葉を聞いた時、私は驚きというか、衝撃だった。
そんな真剣な表情で、意志のこもった声で、そんなことを言える先生がいるのだと、驚いた。
こんな真摯に受け止めてくれる先生は、初めてだった。
私の知る先生というのは、必死に責任から逃れようとしたり、助けをもとめてもよそを向いていたり、逆にいじめっ子達に言い負かされていたり…そういう、人たちだった。
実際彼は、何度もいじめっ子たちを呼び出しては、いじめをしないようにと注意しているようだった。
あと、これは私のためかは分からないが、彼は数学の担任であったこともあり、他の数学の先生の協力を仰ぎ、数学が苦手な人のためにという名目で、少人数クラスを設けてくれた。
数学の点数が特別悪いというわけではなかったが、私はこの少人数クラスに参加していた。
そこには私をいじめる人はおらず、とても、楽しく授業を受けれていた記憶がある。
彼への感謝はしてもしきれないだろう。
彼は私の心を守ろうとしてくれた人の1人だ。
恥ずかしくないんですか
前述のとおり、中学に入ってもいじめを続けていた人物のうちの1人は、同じ部活だった。
彼女とはもともと仲が良かったこともなく、まぁ、小学校の時から私の悪口をいっていたし、中学もそのまま引き継いで、私のことが気持ち悪かったんだと思う。
ある休日、部活動がある日の、朝だった。
私はよくあったようにこの時も、「今日はいけない」と言っていたと思う。
なにがきっかけだったかはわからない。その前の平日に嫌なことを言われたのか、ただ気持ちが落ち込み、自分の中のもやもやしたものと戦うので精一杯だったのか。
今でもそうだが、行ける日と行けない日というのは、朝にならないとわからなかった。
母はそんな私を叱っていた「どうして行かないの」「部活におくれるよ」「なにがいやなの」
それになんて答えたかはあまり覚えていない。
どういう経緯だったかもわからない。
ただ、母親が、もう1度、現在のいじめの中心人物である彼女の家に電話をかけた。
母は彼女自身とも話したらしいが、彼女の親とも話したらしい。
彼女の親がいったのは、
「それがなんですか?」
「そんな事で電話をかけて、ことを大きくしようとして、あなたは恥ずかしくないんですか?」
というような言葉だったらしい。
この言葉を、母はどう思っただろうか。
私の前ではなんて親なんだと怒っていたが、傷ついてはいなかっただろうか。
今も昔も、精神を患った私の対応に苦しみ、苛立ち、悲しみ、すれ違うことが多い親子であると思うが、私は、自分の母親が恥ずかしい人だとは思ったことはない。
当時は自分のことで精一杯だったが、今思い返せば、彼女は、私が少しでも不安なく学校へ通えるように、そしていじめが無くなるように、私を守ってくれていた。
電話だけでなく学校に何度も足を運んで先生と話し、
私は嫌だったが、それでも何度も引きずって車に乗せ、学校へ送ってくれ、
中学校で唯一頑張れていた部活も、応援してくれていた。
彼女は、ずっと私の味方であった。
そんな彼女は、本当に、恥ずかしい親だっただろうか。
部活
体育祭
私自身が患ったその症状や、親や家族との関係などの経緯は、なにぶん中学生の頃からおよそ10年以上の時間が含まれているため、先に高校中退までの学生時代の話を全てしてしまってから、まとめて話したいと思う。
あれはまだ学校に通えていた頃だと思うから、一年の体育祭の時の話だと思う。
体育祭では、それぞれの学年ごと、それぞれのクラスが行う応援合戦の種目があった。
私のクラスもその応援合戦のために、日々練習を続けていた。
私も、練習に参加していた。
体育祭が近づくにつれて、クラスは盛り上がっていた。
応援合戦では、服装も自分たちで決めることができたから、私のクラスは定番の、全員学ランを着て種目行うことになった。
女子は学ランを持っていないから、当日男子から借りることになっていた。
当日はというと、もうお察しの方もいるかもしれないが、私に学ランを貸すことになっていた男子生徒からは、学ランを貸してもらうことはできなかった。
それがどういう経緯でそうなったかはあまり記憶にないのだが、ただひたすらに覚えているのは、明かりがついていない、カーテンも閉まっているために薄暗い教室の中で一人でいた間の時の事だ。
どうしよう、と思うよりは、そりゃ、私に貸すなんて気持ち悪くて嫌だよな。彼も、私に貸すことになってしまって、かわいそうだったな。
応援合戦は私が参加しなくても大丈夫だろうか、いや、風邪で体育祭を休んでしまえばどちらにしろ参加はできないのだから、一人いようがいなかろうが大丈夫だろう。
みんな私が今日いることは知ってるだろうから、あとで怒られても、仕方がないだろう。学ランがなかったとはいえ、貸したいと思われない私にも非がある。
と、挫けて涙がでそうになるのを、ぐるぐる考えることで抑えていた覚えがある。
結局は、忘れ物を取りに来た一人の男子が、着替えていない私を見て着替えないの?との問いかけに、学ランを忘れてしまったと答えた私は、彼から予備の学ランを貸してもらうことができた。
彼は明るく、優しく、おおらかで、みんなに好かれ、みんなの中に常にいる人だったから、その後、からかわれたりしていなかったかが、今も気がかりで心配な事である。