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いじめられっ子から障害者になった人生四半世紀

いじめられっ子から障害者になった人生の四半世紀分の話

手紙

小学生の頃は、携帯を持っているというのは稀で、まだまだ手紙というコミュニケーションツールが主流だった。


授業中や、休み時間に、小さなメモ用紙に何か書いてはそれを上手い具合に折りたたんで、渡したり、交換していた。


ある休み時間の終わりがけ、自分の席に戻ると、机の中の一番手前、椅子に座って次の授業の用意を出そうと視線を下げたらすぐ分かるところに、その小さな手紙は届いていた。


上手に折りたたんである手紙の表には、爆発頭の女の子の絵が描いてあった。

私の髪は天然パーマで、常に他の子と違いくるくるしていたのと、その手紙が私の机に届いていたのとで、すぐにこれが自分の似顔絵なんだろうと思った。


笑顔の表情が描かれたその絵柄を、上手だな。と内心思っていると同時に、とても気味が悪かった。

誰が書いたかわからない。

けれど、書いた誰かはこの手紙を見た自分の反応をどこかから見て、友達と一緒にまたからかいを含めて笑う、あるいは笑っているのだろうと思うと、体がぞわぞわした。


その手紙は、結局中身を見ないままにこっそり捨ててしまった。

中身はきっと自分を嫌な気持ちにさせるだろうと思ったことと、

これを見たことできっと周りの人達はまたその挙動をみて気持ち悪がったり、からかったりするのだろうということと、

わざわざそのために手紙の中身をみて、自分が傷つくことで彼女達を楽しませる必要がないと思ったからだ。


正直な話、そうすること以外で自分自身を守る方法が当時の私には思いつかなかった。

グループ内での優劣

「キモいグループ」と言われていた私とその友人達のグループ内でも、過ごしているうちに次第と人の優劣が出てきていた。


1番上は他のグループの人とも話せるような。いわばクラスでいうと中立的な人。

真ん中は、グループ内で誰とでも平等に接せる人。

下はクラスからは疎まれて、このグループ内でしか過ごせない人。


私はこの中だと下にいて、常に上の人からの見下しは凄かったが、クラスの中のいじめっ子達に受ける嫌がらせに比べたら、彼女達は仲良くしてくれたこともあり、ここがなくなれば1人になってしまうこともあり、仲良くしながら、たまに見下されての関係を続けていた。


しかし、1人仲間外れにされる時はやってきた。


初めが何だったのかは今では思い出せない。

ただ本当に、いつも通りの関係から、手提げ袋を踏まれたり、ふと自分以外のグループのメンバーが集まっていることが増えたり、からかいや悪口の頻度が増えてきたり、

そうしているうちに、1人になっていた。


当時の私は、クラスでのいじめが始まった時と同様に、なぜ自分が標的にされたのかはわからなかった。

ただ、度々述べる自分の鈍感さやどんくささのどこかで、上の人達の機嫌を損ねたか、差別心を煽ったか、他の下にいた人達のように、彼女達の味方につくのが遅かったのか、

とにかく、私はその仲間外れの標的にされ、一人ぼっちになった。



この問題については、教師が「仲直りの場」を設けてくれた。

空いていた理科室で、彼女達と、私とが話し合うというものだった。

教師はこの場にはいなかった。

内容は、彼女達が私の直すべき所をあげて、それを私が理解し、承諾すれば、また仲間に入れてあげるというものだった。

彼女達の話し合いの下、理科室の黒板いっぱいに書かれた私の直すべきところ、もとい悪口が書かれる光景は、今でも思い出すことができる。

私は、反抗する勇気も、抵抗も、する勇気や度胸を持つことができなかった。


この「仲直りの場」を経て、私達は元のグループへと戻ったのだが、悪化した関係は、そう変わらなかった気がする。


彼女達は、よほどすっきりしたことだろう。


小学校の先生

いじめという嫌がらせを受けて、誰かに助けを求めたり、声をあげたりしたことがない訳ではなかった。

特に一緒に過ごすグループ内の友人も嫌がらせ等受けていたりすると、同じ仲間がいる分声をあげやすかった。


当時、私達は先生に訴えれば少しはこの問題が解決するだろうと思っていた。


結果からいうと、状況は何も変わらなかった。

先生に訴えても、私達の話に相槌はうってくれるものの、解決の為に彼がなにかをしようだとか、いじめっ子達を諭すだとかの行動は私達の目にはみられなかった。

影ながらなにかの行動をしていてくれたのか、そうでないのかはわからないままだが、

事実、嫌がらせはなくならず、いつもと変わらない嫌がらせを受ける日常が続いていた。


今の時代ほどいじめを原因に法に訴える事が主流ではなかったものの、そういった話を聞いたことがあった友人の提案も、彼は「やめなさい」という言葉で一蹴していた。

その理由が、事を大きくしてその最中や、その後の私達にかかる心労や、いじめがひどくなるという懸念を案じてなのか、

それによってふりかかる自分への責任問題や、ごちゃごちゃとした大人の都合や、増える仕事を案じてなのかは、

今でも分からない。


ただ一つ分かったのは、「先生は助けてくれない」ということだった。

きもいグループ

小学生当時、キモいと疎まれていた私でも、数人の友達がいた。

友達と言うよりは、クラス内でできる複数の「何をするにも一緒」のグループから溢れた数人で集まった、周囲のグループから「キモいグループ」と言われるような、いわゆるイケていない、余り者グループの同じメンバーだったのだが。


グループから溢れたらすなわち孤独で疎まれるような学生生活を約束されるような小学校での生活下では、ある程度余っているもの同士でも固まっていないと、周囲からの攻撃や危険から身を守りきれなかったのだ。


自分の周りにいる人数が複数になることで、周りから「キモい」と言われたり、笑われたりしたり、疎まれていようと、少し、安心した生活が出来たのを覚えている。

お互いに共通の話題で話ができたり、グループワークを彼らと一緒に行う事ができたり、

同じクラスになれて、グループから溢れていないと集まることは出来なかったが、それでも自分の周りに多少の利害が一致した仲間がいた事は、私にとって嫌がらせから気をそらす為の救いになっていたと思う。


余り者

いじめられっ子の運命として、余り者になることも常であると思う。


クラスのグループワークやレクリエーション、体育の授業でのチーム決め。

社会科見学やキャンプ、修学旅行の班分け。

「好きな人と組んで」という言葉は地獄の合言葉みたいだった。


余り者になったときの寂しさや、みじめさは当然ながら、余った際の周りの視線もとても居心地が悪かった。


彼らの目が訴えることが、はやくどこかの班に入れよと迷惑がっているのか、また余ってると笑っているのか、余り者が自分の班に入ってきませんようにと思っているのか、私には今でも分からない。

しかし、私のことを気持ち悪がって誰にも「一緒に組もう」と言えない環境を作っている張本人たちが、私が余ることで滞る授業やレクリエーションや、停滞する空気を疎んでさらに私を目の敵にする悪循環は、とても理不尽なように思えた。


きもいのとバイ菌扱いはデフォルト

いじめにおいて

「きもい」と言われたり、バイ菌扱いをされるのは定番の行為だと思う。


私も、いじめにあっていた頃はそれが日常的だった。


小学生の頃は、今ほど「きもい」という言葉が常套句としてなかったと思うので、小学生の頃はバイ菌扱いが主だった気がする。


私にふれるだけでなく、私が持っているものや、使っている机や椅子に触れるだけでも、気持ち悪そうな反応をされ、触った人を鬼として鬼ごっこがはじまったり、触った人に「やっちゃったなー」などからかいの言葉を混ぜながら仲間内で笑いあっていた。


席替えで私の隣りの席になった人は「かわいそう」と言われ、

グループワークで机を合わせる時も机は1人だけ少し間隔が開けられていたし、

クラスのレクリエーションでドロケイや鬼ごっこなんかをする時も、鬼に触られることはないので、逃げる必要はなかった。


一番最初

一番最初に、いじめという行為の代表的な悪口だとか

嫌がらせを受けた時は、私自身「自分がいじめられている」とは思っていなかったと思う


ただ、小学校の中学年の頃からだったか、座っている時の所作や、手が口に触れた時の仕草を笑われたり、なにか失敗をした時の「ばーか」という言葉だったり、国語の授業で褒められた自分の作文を休み時間中に読み上げられてからかわれたり

そういう、たまにある一つ一つの小さな出来事が、今思えば最初だったのではないかと思う


低学年の時から、帰り支度のスピードをまわりに合わせられず置いていかれたり、どんくさいところが多々あったそうなので、そういう所が嫌がられたのか、どんくさいからこそからかい易かったのか、からかいがいがあったのかもしれない。



小さな嫌がらせを受けた時は、もちろん嫌な思いだったが、それ以上に怖いという思いもあったと思う


自分を攻撃してくる強い性格の人物達にはもちろん、その人たちがしてくるからかいや、悪口や、

自分の些細な一挙手一投足もからかいの対象になると思うと、なにをするにもとても緊張していたように覚えている



そんな私を怖い思いにさせる小さな出来事は、そのうち、気持ち悪がられ、バイ菌扱いをされ、仲間はずれにされる行為に発展し、気づけば日常の出来事になっていた