いじめられっ子から障害者になった人生四半世紀

いじめられっ子から障害者になった人生の四半世紀分の話

泣く子がつよい

小学校6年生の年だったと思う。

今では動機を思い出すことは出来ないが、合唱コンクールのピアノに挑戦してみようと思ったことがある。


ピアノは小学校に入る前から習っていたし、ピアノの先生にしばらくの間レッスンでも合唱コンクールのピアノの練習をさせて貰えるようにお願いをして、クラス内でからかわれたりすることがないように、こっそり音楽の先生に2曲あるうちの簡単な方の曲の譜面を貰いにいった。


難しい方の曲は、1人立候補していて、

私が選んだ簡単な方の曲は、私と、もう1人の子が立候補していた。

音楽の先生は、「しばらく後の決まった日にそれぞれ弾いて、その出来具合をみてどちらにするか決めよう」と言った。


ピアノは習っていたが、実際にコンクールの時に緊張せずにちゃんと弾けるかは自信がなかったし、親も私もダメで元々と自分自身を励ましながら、練習を始めた覚えがある。



先生が決めた日の当日、昼の長い休み時間だったと思う。

私が先に音楽教室に着いたので、その子が来る前に先生に練習がどこまで進んでいるか、どのくらいピアノを弾くことができるかを見せるために、コンクールの曲を弾いていた。

一生懸命練習していたから、その日には一応一通り通しで弾くことができた。


弾き終わったあと、先生からコメントを貰いながら、気づくと私と同じ曲を立候補したもう1人の子が教室の扉の所で、難しい方の曲を弾く子に付き添われながら、泣いていた。



泣いてしまった子は結局それではピアノを弾くことが出来ないため、一度全員自分の教室に戻り、後ほど、今度は担任の先生に呼び出されて、私と、その子と、その子に付き添っていた難しい方の曲を弾く子が教室の外の廊下で話し合いをすることになった。


話を聞くと、もう1人の子はまだ曲を全て通しで弾くことができなくて、最近やっと、難しい方の曲を弾く子が習っている先生にお願いして、教えてもらいはじめたそうだった。

先ほど廊下から聞いた、私のピアノが、自分より出来ていることにショックを受けて、泣いてしまったらしい。


話し合いの議題は、今の状況で、当初から教師が言っていたように、この日にピアノができている私にピアノの担当を決めてしまうか、もうしばらく待ってから決めるかというものだった。

その子は、少し落ち着いていたが、ショックからか泣いたことからかあまり喋らなかった。

隣にいた、難しい方の曲を弾く子が代わりに話に参加していた。


私は、合唱コンクールでピアノを弾くことをその場で辞退した。

担任の教師は「本当にいいのか」と何度も聞く。

難しい方の曲を弾く子はそれに対して「いいって言ってるんだからいいじゃん」と強い口調で言う。

その子は黙っている。

この場面というか、光景というか、この時の事は、今でも覚えている。


結局私はピアノを辞退し、ピアノはその子が弾くことになった。

親やピアノの先生には、もう1人の子がピアノを弾くことになったと伝えた。



ここで話がおさまればよかった。

その後、その子が泣いた事でクラス内のその子の友人や周りの子達はその子を心配し、その子を泣かせた、私への、元々気持ち悪いと嫌っていたこともあったと思うが、クラス内での周りの視線がいつも以上に痛かったのを覚えている。

ピアノを弾こうとしていたことも周囲に知れたし、後日「ピアノ弾かないの?」などとからかわれるような、嫌味のような、事も言われた。


クラスの中で、その子に味方がいて、私にいなかったのは、私がキモかったり、うざかったり、嫌な奴だったからなんだと思う。

きらい

小学校のクラブ活動では金管バンド部に所属していた。

金管バンド部で、打楽器の、小太鼓を担当していた。


クラス内で嫌厭されていていたこともあり、同学年の子とは距離があったが、他学年も多く所属している事もあり、楽器が違えば話す機会も少ないし、クラス内ほど嫌な思いはしなかった。


同学年の子達と距離があるのも、産休に入る先生へ贈る為の寄せ書きのことを知らされず後になって忘れられていたことを聞かされた時も、

クラス内で受けていた嫌がらせよりはマシだった。

ただ、この人たちのいう「みんな」に私は入っていなかったんだなという思いが今では残っている。


ただ、同学年で1人だけ、ただひたすらに、「あぁ、この人は私の事が嫌いなんだな」と思う人がいた。

その子とは同じ保育園から、小学校に上がってきたと思うのだが、それまでは会えば自然に話もしていたと思う。

クラスが離れれば疎遠になるし、機会があれば話す。そのくらいの関係だった。

クラブ活動では彼女は私と同じ小太鼓担当だった。


彼女がいつ私を嫌いになったのか、きっかけがなんだったのか、情けないことに分からない。

ただ、「みんなで頑張ろう」という意味を込めてクラブ内の全員に渡された手作りのアクセサリーかストラップか…(実際になんだったのかはわからない)を1人だけ渡されなかったり、

マーチングをやっていた時に、話を伝えられずに、一人連携がとれていない私を先生が注意するのを見て、笑っていたり、

そういうのが顕著になってきてから、

私はやっと彼女に嫌われていることに気づいた。


ただ、彼女が向けてくる「きらい」というものも、いじめよりはマシだったなと今でも思う。

嫌われているなら、あまり話さないようにしたり、関わらないようにすれば、なにもされなかった。

いじめは、どこにいても、関わらずとも、向こうからやってきた。

それはどんな「きらい」よりも、恐ろしく思えた。

手紙

小学生の頃は、携帯を持っているというのは稀で、まだまだ手紙というコミュニケーションツールが主流だった。


授業中や、休み時間に、小さなメモ用紙に何か書いてはそれを上手い具合に折りたたんで、渡したり、交換していた。


ある休み時間の終わりがけ、自分の席に戻ると、机の中の一番手前、椅子に座って次の授業の用意を出そうと視線を下げたらすぐ分かるところに、その小さな手紙は届いていた。


上手に折りたたんである手紙の表には、爆発頭の女の子の絵が描いてあった。

私の髪は天然パーマで、常に他の子と違いくるくるしていたのと、その手紙が私の机に届いていたのとで、すぐにこれが自分の似顔絵なんだろうと思った。


笑顔の表情が描かれたその絵柄を、上手だな。と内心思っていると同時に、とても気味が悪かった。

誰が書いたかわからない。

けれど、書いた誰かはこの手紙を見た自分の反応をどこかから見て、友達と一緒にまたからかいを含めて笑う、あるいは笑っているのだろうと思うと、体がぞわぞわした。


その手紙は、結局中身を見ないままにこっそり捨ててしまった。

中身はきっと自分を嫌な気持ちにさせるだろうと思ったことと、

これを見たことできっと周りの人達はまたその挙動をみて気持ち悪がったり、からかったりするのだろうということと、

わざわざそのために手紙の中身をみて、自分が傷つくことで彼女達を楽しませる必要がないと思ったからだ。


正直な話、そうすること以外で自分自身を守る方法が当時の私には思いつかなかった。

グループ内での優劣

「キモいグループ」と言われていた私とその友人達のグループ内でも、過ごしているうちに次第と人の優劣が出てきていた。


1番上は他のグループの人とも話せるような。いわばクラスでいうと中立的な人。

真ん中は、グループ内で誰とでも平等に接せる人。

下はクラスからは疎まれて、このグループ内でしか過ごせない人。


私はこの中だと下にいて、常に上の人からの見下しは凄かったが、クラスの中のいじめっ子達に受ける嫌がらせに比べたら、彼女達は仲良くしてくれたこともあり、ここがなくなれば1人になってしまうこともあり、仲良くしながら、たまに見下されての関係を続けていた。


しかし、1人仲間外れにされる時はやってきた。


初めが何だったのかは今では思い出せない。

ただ本当に、いつも通りの関係から、手提げ袋を踏まれたり、ふと自分以外のグループのメンバーが集まっていることが増えたり、からかいや悪口の頻度が増えてきたり、

そうしているうちに、1人になっていた。


当時の私は、クラスでのいじめが始まった時と同様に、なぜ自分が標的にされたのかはわからなかった。

ただ、度々述べる自分の鈍感さやどんくささのどこかで、上の人達の機嫌を損ねたか、差別心を煽ったか、他の下にいた人達のように、彼女達の味方につくのが遅かったのか、

とにかく、私はその仲間外れの標的にされ、一人ぼっちになった。



この問題については、教師が「仲直りの場」を設けてくれた。

空いていた理科室で、彼女達と、私とが話し合うというものだった。

教師はこの場にはいなかった。

内容は、彼女達が私の直すべき所をあげて、それを私が理解し、承諾すれば、また仲間に入れてあげるというものだった。

彼女達の話し合いの下、理科室の黒板いっぱいに書かれた私の直すべきところ、もとい悪口が書かれる光景は、今でも思い出すことができる。

私は、反抗する勇気も、抵抗も、する勇気や度胸を持つことができなかった。


この「仲直りの場」を経て、私達は元のグループへと戻ったのだが、悪化した関係は、そう変わらなかった気がする。


彼女達は、よほどすっきりしたことだろう。


小学校の先生

いじめという嫌がらせを受けて、誰かに助けを求めたり、声をあげたりしたことがない訳ではなかった。

特に一緒に過ごすグループ内の友人も嫌がらせ等受けていたりすると、同じ仲間がいる分声をあげやすかった。


当時、私達は先生に訴えれば少しはこの問題が解決するだろうと思っていた。


結果からいうと、状況は何も変わらなかった。

先生に訴えても、私達の話に相槌はうってくれるものの、解決の為に彼がなにかをしようだとか、いじめっ子達を諭すだとかの行動は私達の目にはみられなかった。

影ながらなにかの行動をしていてくれたのか、そうでないのかはわからないままだが、

事実、嫌がらせはなくならず、いつもと変わらない嫌がらせを受ける日常が続いていた。


今の時代ほどいじめを原因に法に訴える事が主流ではなかったものの、そういった話を聞いたことがあった友人の提案も、彼は「やめなさい」という言葉で一蹴していた。

その理由が、事を大きくしてその最中や、その後の私達にかかる心労や、いじめがひどくなるという懸念を案じてなのか、

それによってふりかかる自分への責任問題や、ごちゃごちゃとした大人の都合や、増える仕事を案じてなのかは、

今でも分からない。


ただ一つ分かったのは、「先生は助けてくれない」ということだった。

きもいグループ

小学生当時、キモいと疎まれていた私でも、数人の友達がいた。

友達と言うよりは、クラス内でできる複数の「何をするにも一緒」のグループから溢れた数人で集まった、周囲のグループから「キモいグループ」と言われるような、いわゆるイケていない、余り者グループの同じメンバーだったのだが。


グループから溢れたらすなわち孤独で疎まれるような学生生活を約束されるような小学校での生活下では、ある程度余っているもの同士でも固まっていないと、周囲からの攻撃や危険から身を守りきれなかったのだ。


自分の周りにいる人数が複数になることで、周りから「キモい」と言われたり、笑われたりしたり、疎まれていようと、少し、安心した生活が出来たのを覚えている。

お互いに共通の話題で話ができたり、グループワークを彼らと一緒に行う事ができたり、

同じクラスになれて、グループから溢れていないと集まることは出来なかったが、それでも自分の周りに多少の利害が一致した仲間がいた事は、私にとって嫌がらせから気をそらす為の救いになっていたと思う。


余り者

いじめられっ子の運命として、余り者になることも常であると思う。


クラスのグループワークやレクリエーション、体育の授業でのチーム決め。

社会科見学やキャンプ、修学旅行の班分け。

「好きな人と組んで」という言葉は地獄の合言葉みたいだった。


余り者になったときの寂しさや、みじめさは当然ながら、余った際の周りの視線もとても居心地が悪かった。


彼らの目が訴えることが、はやくどこかの班に入れよと迷惑がっているのか、また余ってると笑っているのか、余り者が自分の班に入ってきませんようにと思っているのか、私には今でも分からない。

しかし、私のことを気持ち悪がって誰にも「一緒に組もう」と言えない環境を作っている張本人たちが、私が余ることで滞る授業やレクリエーションや、停滞する空気を疎んでさらに私を目の敵にする悪循環は、とても理不尽なように思えた。