いじめられっ子から障害者になった人生四半世紀

いじめられっ子から障害者になった人生の四半世紀分の話

苦しさ

あまり学校にいけなくなってからは、ただひたすらに辛く、苦しかった。


後にあらためて書こうと思うが、部活の先輩が、同じ部活にいるいじめの首謀者に私をいじめないようにと言ったり、学年主任が彼女を呼び出していじめないようにと言ったりしたのを聞いたり、覚えていたりするので、悪口や嫌がらせというものは、続いていたのだと思う。


ただ当時はそんな事よりも、自分の中でぐるぐるしている不安や、恐怖や焦りやいろんな、たくさんの感情がわけもわからずごちゃ混ぜになって、自分の中で暴れ回っているような感覚は、恐ろしさしかなかった。


学校へ行けなくなった私を、親は心配すると同時に、叱った。

その度に私は、「行けない」「行きたくない」「怖い」「嫌だ」などの言葉を繰り返しながら、時には泣いていたと思う。


親も、さぞ苦しんだ事だろう。

自分の子供がなぜ突然学校に通えなくなってしまったのか、学校へ通えなくなってからは親にはいじめの事が知れてしまったので、なぜいじめられているのか、私の情緒不安定になる様を見てはどうしたら良いか分からずに、ただ自分も声をあげて叱ることしか出来ないことに。


当時は、まだ私自身も、親も、これが精神疾患の始まりだとは夢にも思っていなかったのである。


不登校のはじまり

気づいてみればなんのことは無かった。


他の子達との間に微妙に存在を感じる距離も、今では確かめようはないが、私が小学校の時いじめられていたことを知ったからだったのだと今、自分では思う。


事実、彼女達は先生や、先輩の手前、私をいじめることは無く、必要があれば話したが、必要が無ければ話すことも関わることも無かった。


また自分の悪いところに気づけなかったとも思ったし、そりゃぁ、いじめっ子と同じ学校に進学したのだから、仕方がないのかもしれないとも思った。

学校に行くのは、不安と、緊張が伴った。



1年生の、いつごろだっただろうか。

正確には覚えていない。

それがじわじわとやってきたのか、ある時糸が切れるようにやってきたのかも分からない。

どうしていままでや小学校の時にあんなに学校に通えていたのかもわからない。

学校を休みがちになったことは、次第に不登校に繋がった。

変わらない

部活は、親の強い勧めもあって吹奏楽部に入部した。

吹奏楽部は、マーチングの大会にも参加していて、全国出場を目指しているところだったので、とても厳しかった。

本当は、イラストや漫画を描いたりする穏やかな部活が良く、自分では一生懸命親と話したつもりだったが、親の反対を押し切るほどの力も根性も情けないことに私には無かったようだった。

吹奏楽部では、小学校と同じ打楽器パートに所属することになった。


しかし入学して、部活にも入って、話すことが出来る子が増えたのは、とても嬉しいことだった。

学校にいっても、いじめられる心配はなく、学校に来て、挨拶をしても大丈夫だと思える子が沢山いるのは、楽しかった。


しばらくして、話せる子達との間に少し距離を感じるようになった。

それはクラスのよく一緒にいるグループが違ったり、部活のパートが違うこともあったり(打楽器パートで一年は私しかいなかった)、性格が違うためだと思っていた。



ある時、もう一つの小学校出身の子が、いじめの内容ではないが、小学校の時に私の身に起こったことを、私自身に話してきた。

当時は、なぜ今その話をするのか、なぜ私に話すのか、なぜ知っているのか、わからなかった。



ある時、同じ小学校出身で、中学では同じ部活所属の子が、私もいる場で、はっきりと私の隣の席の男子に対してこういった。

「席、あの子の隣なの?かわいそうだね。



全く、自分の鈍感さや、どんくささには、ほとほと呆れるし、恥ずかしい限りだが、やっと気づいたのだ。

中学校も変わらない、と。

中学校

私が在籍していた中学校は、二つの小学校の卒業生があがってくるところだった。


私がいじめられていたことを知っている人はもう一つの小学校出身の人は知らないだろうし、

私をいじめていた男女のうち男子の方は、元々やんちゃだったこともあり、もう一つの小学校出身の子達とも集まってやんちゃなグループを作っていた。

中学校にあがり、思春期が始まることも相まってか、あまり女子のあれこれに関わってこなくなった。(小学校の時も男女それぞれグループは分かれていたが)


小学校の時よく一緒にいたグループの、上の1番キツい子は私立中学へあがったことで会わなくなった。


女子の方も、もう一つの中学校からあがってきた子達がいたことで、話せる子ができた。



中学校では大丈夫だと、これで、自分も学校生活を楽しく過ごせるんだと、入学当初、私は安心したのか、嬉しかったのか、やけに学校が楽しかったのを覚えている。

小学校卒業

こうして、毎日、

毎日毎日、悪口を言われ、バイ菌扱いをされ、仲間はずれにされた私の小学校生活はようやく終わりを迎えた。


そんな毎日毎日あるものなのかと思う人もいるのかもしれないが、実際日によって程度の差はあるが、あるのだ。

きっと彼らは毎日学校に通い、授業を受けるのと同じように、人の悪口をいい、バイ菌扱いをすることもまた、学校に来たらやる当たり前の事として日常的になっていたのかもしれない。



小学校生活を思い返して、この頃はまだ毎日学校に行けていたことを思うと、よく毎日通えていたもんだと今では思う。

ただ体育の時間は、高学年になった頃から、なにかと理由をつけては見学するようになっていた。

チーム決めの際に余り物になって注目を浴びるのも嫌であったし、

みんなで持久走をするのとは違い、跳び箱や、マット運動など、1人ずつ行わなければならない種目や大きな動きをしなければならないような時は、特に、自分がなにかすることで悪口を言われたり、笑われたりするのが怖くて、嫌だった。



卒業式は、あまり感慨深いものではなかった。

式の間私の胸の中にはなんの感情も湧いてこなかった。

ただ、誰かしらのお祝いの言葉があり、卒業証書をもらうために名前を呼ばれたら返事をして、もらいに行って、送辞だとか答辞だとか歌を歌ったりだとかなんだりするのをただ聞いては、事前にやっていた練習の通り、起立して、礼をしてを、繰り返していた。


周りが泣いているのが不思議でしょうがなかった。

そんなに、小学校生活は楽しかっただろうか。

離れがたいものだっただろうか。


じゃぁ私は逆に嬉しかったのかというと、そういう訳でもなかった。

ただ、あぁ終わったんだな。となんと言えばいいのか。本当に、ただ人事のように、その場を過ごしていた。

チクリマン

日々の嫌がらせに耐えられずに、小学生の頃、一度だけ母親にもう学校へ行けない。つらい。と泣いたことがある。


母親はこれを真摯に受け止めてくれて、私をいじめていた中でも主だった人物の家にさっそく電話をしてくれた。

(当時はまだ卒業アルバムや連絡網のプリントに連絡先が載っていた)


彼の母親は大変申し訳なさそうに謝ってくれて、息子にもよく言って聞かせると、言ってくれた。


これで、少しは良くなるだろうと、母親も、私も、自分自身を励まし、翌日、学校へ行った。


当の彼はというと、昨日自分の家にうちから連絡があったこと、それで母親に怒られたこと、私は最低な奴だ、チクリマンだ。と周りに触れ回っていた。

周りの人間も、彼に合わせて、私は最低な奴だ、チクリマンだと一緒になって言っていた。


いじめの内容も、変わらなかった。

本当に、私は最低だっただろうか。

クラス内や学校の同年代に自分の味方がいない状況で、教師も助けてくれない中、いじめられている事を告白出来ずにいた親に、罪悪感と、それでも助けて欲しいと願って頼ることが、そんなにいけない事だっただろうか。


彼らの気持ちが今でもわからない。

道徳

小学校の頃は、道徳の授業があった。

様々なテーマに対して、個人がどう思うかの意見を述べたりする内容の授業だったと思う。

家族のことから、それこそ、いじめのことについても取り上げられたことがある。


今でも覚えているのが、いじめについて、実例だったかフィクションだったかの記憶はないが、ちょっとしたドラマのような映像を授業内で見たことだ。


その映像の内容は、

まず、田舎から転校してきた女の子がクラスからの嫌がらせを受ける。

悪口を言われたり、バイ菌扱いされたりの良くある典型的ないじめだ。

ある日、掃除の時間にクラスみんなが気持ち悪がって運ばれない女の子の机を、1人の男の子が運ぶ。

そこから、次は男の子に対するからかいからの嫌がらせが始まった。

女の子は心身共に参ってしまい、円形脱毛症になり、ついにはその学校を離れ、母親と一緒に引越していった。

残るは男の子だ。女の子がいなくなった分に加えて、いじめはだんだんエスカレートし、最後は障害が残るまでの怪我を負う。

最終的にはいじめっ子達は反省し、リハビリをしながら頑張っている男の子と和解するというものだ。


この内容が私個人が今でも気持ち悪いと思うことを述べるのはさておき、

当時気味が悪かったのは、これに対するクラス内の感想だ。


「いじめはいけないことだと思いました」

「いじめられている人がいたら、助けられるような勇気を持とうと思いました」

当然、クラス内ではこのような意見が述べられる。

先生に発表しなければならないからだ。


当時私が受けていた悪口やバイ菌扱いを、いじめと判断するのはそれぞれの物差しによると思うが、

彼らは、いじめが悪いことだと言えるように、きっと悪口もいけないことだと、バイ菌扱いもいけないことだと、同じように言えただろう。


彼らが当時、私に対していう悪口や、バイ菌扱いするその態度と同じ口で、同じ体で、先生に意見を求めれたら、「それは悪いことです」と、言えただろう。


教師も、助けを求めた事があるにもかかわらず、その意見に対して、「そうですね」といえる光景は、実に気味が悪かった。


それはもしかしたら、悪口を言われているのは、バイ菌扱いをされているのは、私の勘違いで、仲間に入れてもらえないのは、グループワークの時1人だけ机が離されているのは、私が夢でも見ているからなのかもしれなかった。



この日から、普段食べ物などでもアレルギーを出さない私は、いじめに関連する映像やマンガ書籍に至るまで、それらを見ると、しばらくしてから蕁麻疹が出るようになった。

今でもこの症状があるかは確かめたくはないが、いじめ要素がある作品を避ける癖は、今でも残っている。